Kitajskaya’s Raccomandazione

このブログでは、私、Kitajskayaが気になったモノを紹介します。私の嗜好はかなり偏っているので、かなりマニアックなものなると思います。また気まぐれなので、更新はまちまちになると思います。 Raccomandazioneとは、イタリア語で「おすすめ」という意味です。

ひとりぼっちを笑うな

 この本は以前から読みたかった本で、何か月か待って、やっと藤枝市の図書館から借りることができました。
 著者の蛭子能収さん、シュールな作風の漫画家で最近ではTVのバラエティ番組によく出演されています。最近ではテレビ東京系の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」という番組で俳優の太川陽介さんとコンビでますます人気を博しているようです。
 私は蛭子さんが好きという訳ではなく、むしろ逆。嫌いとは言わないまでも敬遠したいタイプです。テレビでしかその人なりはわかりませんが、テレビから映し出される印象は貧相な出で立ち、いつもへらへら笑っていて気持ち悪いし、時折見せる無神経な発言など、私にとっては出来れば少し距離を置きたいと思う人間で、以前どこかの放送局のバラエティ番組で、高田万由子さんの発言に対して彼女を小馬鹿にしたような小言を発して高田さんの怒りを買ったのに謝りもせず平然としていた事があり、それを見て「この人自分のことを棚に上げ、随分無神経なことをいう人だなあ!」と思ったことがあります。もっとも本人は著書の中で「他人に余計なことをしない」、「誰かに嫌われていると思わない」と述べていますが・・・。
 「ひとりぼっちを笑うな」、タイトルが刺激的ですが、この本を書くに当たり、蛭子さんは昨今の「友だち」偏重傾向に疑問を呈していて、プロローグで以下のように述べています。 

 僕は昔からひとりぼっちでいることが多かったし、友だちみたいな人もまったくいませんが、それがどうしたというのでしょう?ひとりぼっちでなにが悪いというのだろう?というかむしろ「ひとりでいること」のよさについて、みんなにもっと知ってもらいたい。友だちなんていなくていい。ひとりぼっちだっていいんじゃないかな。

 蛭子さんは、幼少時よりお母様と二人暮らしの生活をされていました。お父様は漁師でほとんど家におらず、兄弟もお姉様とお兄様がいましたが、年が離れており、一緒に過ごした記憶があまりないとか。幼少時から家に籠って少年漫画に嵌り、青年時代には映画に嵌っており、一人で楽しめる遊びが好きでした。つまり孤独が当たり前の状態で存在しており、そうした少年時代を送った蛭子さん、長いこと他人の干渉がなく自由に時を過ごしていたため、友だちの自体が却って鬱陶しくなり、自分の自由な時間を脅かす厄介なものと考えるようになりました。蛭子さんは友だちの存在を否定しているわけではありません。ただそれ以上に自由であることの方が大切であると述べられています。
 それは昨今の風潮である連帯至上主義にも疑問を投げかけており、特に2011年に東日本大震災が発生した後、“”という言葉が巷で声高に叫ばれていましたが、それに対しても蛭子さんは釈然としない思いを綴っています。

 でも“絆”ってどんなものなんでしょうか?正直なところ、僕にはちょっとそれがよくわからなかったんですよね。あと「がんばろう日本」という言葉も、よく耳にしました。でも、がんばるって、一体なにをどうがんばればいいのだろうって。(中略)
 だから、あくまでもその人それぞれがやれることをすればよいのであって、「絆」や「がんばろう」という言葉を、むやみやたらに強調しなくてもいいのではないかと考えているんです。
 あくまでも人は自由だから、絆の外にいる人、がんばらない人がいてもいいし、それを「間違った考えをするな!間違ったことをするな!」「それでもお前は日本人か!」「人でなし!」と説教や強要をするのは好ましくない。現実には他人を心配することのできないくらいに余裕のない人だってたくさんいるし、関心があまりない人がいるっていうことも認めないといけない。

 また蛭子さんは「群れる」ことについて嫌悪に似た感情を吐露し、誤った方向に向かった時の凶暴性について警鐘を鳴らしています。 

 グループを作ると、そのなかには必ずリーダー的な存在の人が生まれるものです。“グループにはまとめ役のリーダーたるものが必要”だという組織論的な考えは理解できますが、その人がもし、性格の悪い人だったら、グループはメチャクチャになるでしょう。そこは、本当に気をつけたほうがいいポイントだと確信しています。
 グループというのは“集団”だから、どこかしらで安心感のようなものが芽生えるかもしれません。人間は結局のところちっぽけで弱い生き物ですから、きっとその安心で「自分はひとりではないんだ」「みんなといればまもられる」と思って勇気づけられるのかもしれない。野生動物の多くがそうであるように、生き物は「群れる」習性があるから、人間だって同じことなんでしょうね。
 でも、グループは必ずしもいいものではなくて、ときとして凶暴になる恐れがあります。ある種、おかしな方向にいってしまったら、それはもう歯止めが利かなくなると見ているんですよ。

 ネットの書評によれば、もともと蛭子さんはこの本を書くことには乗り気ではなかったようですが、広島県呉市で起きた「LINE」上の口論をきっかけに起きた殺人事件に心を痛め、友だちと揉めて殺されるのなら友だちなんかいらないんじゃないか、ひとりぼっちでもいいんじゃないかと思い、書くことを決めたそうです。
 私自身、友だちはいないし、行動もほとんどひとりです。だから蛭子さんの意見は共感できます。蛭子さんのように私も子供のころはやはりひとり遊び、実際には双子の弟がいたので二人遊びの方が多かったのですが、外で遊ぶより家の中にいる方が多かったです。両親も今でいう成績至上主義の“毒親”で、何かにつけ出来のいい弟と比較されたこともあり、激しい劣等感に苛まれ、ますます陰に籠っていました。
 もともと内向的な性格もありましたが、小中学校では居ても居なくてもいいような軽い存在だったように思います。恐らく相当影が薄かったのではないかなあ!?高校になると周りとどうしても打ち解けることができず、いつもぽつんとひとりでいました。多分高校生活の大半は教室でほとんど喋らなかったと思います。話しかけてくれる人もいませんでしたしね。そういう意味で私の青春は本当に暗かった!!
 だから今も集団行動が苦手でいつの間にか輪の中からはぐれてしまうパターンがほとんど。何とか輪に入ろうと努力はするのですが、なかなかうまくいかず常に疎外感と劣等感に悩んでいました。またこの本で書かれている“大皿料理が苦手”なことや“食事会や飲み会が嫌い”なことは私もそうです。蛭子さんは自由が脅かされるのが嫌でそういった類の集まりを敬遠していますが、私の場合は集団の中の孤独に耐えられないという悲しい理由からです。
 ただ蛭子さんの心境になるには心の平静さが必要ではないかと思います。特にサラリーマンの場合、飲み会を断るにはちょっとした勇気が必要、同僚からの陰口や上司の嫌味に耐えねばいけません。私はほとんど最近は飲み会には出ていませんが、それは所属する組織に不満があり、やってられないと思い、ある重要な飲み会をすっぽかしたことがきっかけ。以降どうにもなれと開き直ったので、周囲の雑音を気にすることがなくなりましたし、あいつはそういう奴だと半場呆れられています。まあその代りに失ったものも多かったのですが・・・。鬱陶しい人間関係から解放されるには私のように開き直りが必要ですが、心の弱い人にはこれはかなり難しいことではないかなあ?
 さらにこれは重要なことだと思いますが、蛭子さんはひとりで自由でいるにはお金が必要だと説いています。また“ニート”や“ひきこもり”に対しても厳しい見方をされています。そしてたとえ嫌な仕事でもコツコツと地道に働くことを奨励しています。

 ただ、「ニート」というのは、どうなんだろうな・・・・・・?それはもう“労働意欲が‬ない”ということですよね。あと、「ひきこもり」みたいな人も理解できない。他人と接触するのが嫌なのかな?でもそれは現実的には許されない生き方ですよね。いつまでも親の世話になるわけにはいかないし、誰かに迷惑をかけながら生きていくのは、自分自身も精神的にきついでしょう。なによりも、それは本質的に自由ではない。自分で働いてお金を稼いでこそ、誰に憚ることなく自由でいられると、僕はそう思うんです。

 これって当たり前のことですが、その当たり前が人間なかなかできないですよねえ!?
 この本を読み終えて、蛭子さんへの心象が大きく変わったということはありませんが、蛭子さんの意外な一面が見れて面白かったです。この本はいわゆる教則本や指南書の類ではなく、どちらかと言えば、ゆるーいエッセイのような感じ、それが蛭子さんらしいのですが、平易な文章で一気に読めて、読んだ後に心にあったわだかまりのようなものが解けて爽快な気分にさせてくれました。一部、それはちょっと違うんじゃねえと思われるところもありますが、それはご愛嬌。人間関係に疲れたサラリーマンや交友関係に悩む学生さんには読んでもらいたい一冊だと思います。